JR法隆寺駅の南口から安堵町を通って、近鉄平端駅から天理駅までを結んでいたのが天理軽便鉄道です。奈良県は鉄道の栄枯盛衰がかなり激しかったようで、
- 鉄道会社ができる
- 線路を引く
- 競合に競り負ける
- 吸収合併
- 廃線
という歴史を辿った路線がいくつかあります。
天理軽便鉄道もその一つで、天理教徒が大阪と天理を往復する需要を見込んで開業したものの、天理からの帰りはJR万葉まほろば線(現)を使う人が多かったなどで乗客数が伸び悩んだようです。
開業から6年もしないうちに、近鉄橿原線(現)を敷設した大阪電気軌道に買収されてしまいました。で、平端駅から天理駅までは標準軌&電化と注力されたのに対して、新法隆寺駅から平端駅までの路線はテコ入れされないまま終戦前に休止、そのまま廃止されてしまいました。
安堵町指定文化財
富雄川の東岸・ため池の南に立つ看板より
天理軽便鉄道跡 木戸池築堤
指定日 平成二十七年六月一日
種類 有形文化財 建造物
天理軽便鉄道は大正四年(一九一五)から昭和二十七年(一九五二)まで、関西本線の法隆寺駅前の新法隆寺駅から天理駅までの約九キロメートル間を運行していた、軌間762ミリの鉄道路線です。
大正十年(一九二一)に大阪電気軌道に吸収された後、平端と天理間は電化、標準軌化されましたが、分断された新法隆寺と平端間は従来施設のまま運行、ガソリンカーが導入されました。
戦時下に至り、昭和二十年(一九四五)不要不急路線として運休となり、復活することなく廃線となりました。
廃線後も木戸池内の中央を東西に横切る築堤が痕跡のひとつです。南北に分かれた溜池の水が行き交う水路には、レンガ組の橋台が残されています。
奈良県内に残るいわゆる近代化遺産のなかで、鉄道が廃止された後も撤去されることなく良好な状態で残る数少ない構築物です。
安堵町内における近代の交通・運搬の様相を伝えるものとして貴重であり、地域の景観形成の重要な構成要素となっている点で意義があるものです。
安堵町教育委員会
(天理軽便鉄道の路線が残っていれば、西大寺方面へのアクセスが便利だったろうに…)
余談はおいて、写真は法隆寺駅から東、富雄川のあたりに今も残る路線跡です。ため池をまたぐ橋桁跡はともかく、西側の田畑に残る路線跡は、畑にされていたりあぜ道になっていたりで、よく見ないと路線跡であることにも気付けません。
コメントを残す